実車写真館 日本海軍 12cm自走砲

      NAVY 12cm Self-propelled Gun 


今回も特ダネを入手しました\(^o^)/。 な、なんと海軍12cm自走砲の写真です(゚o゚)。
情報の主はktgwさん。 「終戦直後に撮影された米軍の記録映画に驚くべき車輌が映っています」との情報と共に貴重な映像も同封されていました。
撮影された場所は終戦直後の横須賀で12cm自走砲は画面には数秒間映っていただけのものでした。

写真は640×480に拡大したもの

日本戦車のバイブル「日本の戦車」(原 乙未生・栄森 伝治・竹内 昭 共著 出版協同社 刊)の解説には
「海軍で試作した自走砲で主砲は重巡に搭載された10年式45口径12cm高角砲を改造したもの。 最大速度は20km/h チハ車に比べ半減しているが、全備重量の増加によるものと推定される。 試製1輌が完成し各種試験を終了、生産が開始されたところで終戦を迎えた。」と記載してあります。
なお同書には「終戦時艦本1部調製:陸戦兵器試製実験に関する資料」を引用し「砲の最大仰角は20度、最大俯角は10度、全周射撃可能という記録は残っているが、チハ車程度の重量で12cm砲の全周射撃可能というのは一寸疑問である。」と記載されていますが、写真を見てお判りのようにチハ車の車体上部を取っ払って12cn広角砲を載せただけですので全周射撃は可能のようです。
(使えるか使えないかは疑問が残りますが(^_^;)


この車輌の最大の疑問はベースとなったチハ車の車体が強化されていたか?というのが問題になってきます。
これは以前掲示板でご指摘いただいた「チハ車は安価で粗悪な自動車鋼を多用したため、列強諸国の戦車に比べると車体の強度が不足している」ということからの疑問です。
12cm自走砲の写真を見ると、チハ車の車体に単に10年式45口径12cm高角砲を搭載しただけのように見えます。
このままでは砲を射撃すると衝撃がもろに車体にかかってしまうことになります。 最悪の場合、数発撃っただけで粗悪な自動車鋼を多用したチハ車にはこの衝撃に耐えられなくなり、走行不能などの故障の原因になってしまいます(;_;)。
ですからベースとなったチハ車の車体が強化されていないとすると、この12cm自走砲は本土決戦に備えた単なる移動砲台と考えた方が良いでしょう(^_^;)。


海軍十年式12糎高角砲 諸元

口径 120mm 砲身長 5280mmmm 重量 8500kg 弾量 20kg 
初速 900m/s 最大射程 15000m 最大射高 10000m

当初は艦戴用だったが大戦中期より南方に配備され海岸砲として使用された。
初速も大きく1分間に12発の弾丸を発射することが出来た。

「別冊1億人の昭和史 兵器大図鑑」よりの引用

2000/10/28付記

   陸戦屋さんの投稿より

この写真の12p高角砲搭載自走砲は、館山海軍砲術学校にただ1両が所属し、終戦は三浦半島で迎えた車両と見て間違いありません。  この車両は、陸戦専修第4期予備学生の少尉を指揮官とする自走砲隊(1両のみですが)の手で各種試験が館山で行われた後、館山砲術学校が横須賀砲術学校に併合されるのと同時に横須賀第1警備隊(イコール横須賀砲術学校)に所属する陸戦教導隊の砲隊(陸軍でいう砲兵隊)に元館砲校所属の15cm榴弾砲や山砲・20cm噴進砲隊と共に編入されました。そして現在の茅ヶ崎市南湖の南湖院(結核療養所を海軍が接収)に駐屯中に、昭和20年7月1日編成の横須賀第15特別陸戦隊(の砲隊?)に編入され7月中旬に現横須賀市久里浜へ移動、同市野比の尻こすり坂の横穴陣地で終戦を迎えています。  この自走砲は、元隊長によれば館砲校当時から戦車隊ではなく砲隊の所属であったようです。また、当初は照準器の不備から命中精度は悪かったものの、のちに改善されたとのことです。  海軍唯一の自走砲隊は、隊長の予備学生出身少尉以下陸戦の専門教育を受けた下士官兵数名と、茅ヶ崎南湖院で編入された予科練出身兵から成っていました。  


画面に映っている時間はほんの数秒。 ナレーションもただの戦車としかいっていません(-_-メ)。
手前のコート姿は視察に来た米軍将校



情報&映像提供  ktgw 様
キャプチャー協力  日向様


ご意見、ご感想はこちらへ メール  または 掲示板  

本ホームページに掲載されている文章及び画像の無断転載はお断りします。

 むーのおもちゃ箱へ戻る

日本の戦車へ戻る

楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] ECナビでポインと Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!


無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 解約手数料0円【あしたでんき】 海外旅行保険が無料! 海外ホテル